本ブログでは、「大学入試」の科目として「世界史」を扱ってきた。
ただ、筆者は、一般の方々にも、もっと世界史を学んでいただきたいと思っている。
そんな思いから、「学び」のカテゴリーから「もっと世界史を学ぼう」として情報発信していこうと思う。
「世界史」の出来事の中から筆者がランダムに選んでご紹介していくものとなる。
今回は、「フランス革命」である。
フランス革命とは
1789年にフランスで勃発した、ブルボン絶対王政を倒した市民革命である。
封建的特権の廃止、人権宣言、王政廃止、憲法制定などを実現、共和政を実現した。
まずは、王政とそれを支えた貴族階級に代わりブルジョワ階級が権力を握るが、革命の過程で急進派と穏健派が分裂、ロベスピエールによる恐怖政治を経て、周辺の君主制国家からの介入もあって革命政権は動揺し、1799年のナポレオンの軍事独裁政府の成立に至る。
発端は、ブルボン王朝による絶対王政が、国家財政の悪化により揺らぎ始めたことである。革命直前の1788年をみると、負債返済額は国庫支出の半分に達していた。
負債の原因は、軍事支出であった。17〜18世紀のフランスは、イギリスと、「第2次百年戦争」を戦ってきた。18世紀後半になると、イギリス産業革命の開始によって両国の経済力の格差が広がり、フランスの劣勢は明らかになり、軍事支出は国庫に重くのしかかってきた。
当時のフランス社会は、中世以来、第一(聖職者)、第二(貴族)、第三(平民)の3つの身分からなる身分制社会であった。
このうち、第一・第二身分は、領主として土地の所有権を持ち、免税権をはじめとする封建的特権を持っていた。
財形改革の一環として、すべての身分を対象とした「土地上納金」導入の是非を巡って、これが、第一・第二身分の免税特権を侵し、身分制社会の根幹に関わる「国制問題」だとして、紛糾した。
高等法院は、第一・第二身分の利害を代弁していたが、「国制問題」を論じる場として、三身分の代表による「三部会」の招集・開催を求めた。国王側はなおも「土地上納金」導入を試みこれに反対する高等法院と対立し、各地で衝突が発生した。
ついに、1788年、国王は、全国三部会を翌年開催することを約束したのである。
問題が、第一・第二身分への課税の是非だけであれば、国民の大多数を占める農民や都市部民衆にとって無関係であった。実際、三部会で第三身分議員として選出されたのは、ほとんどがブルジョワジーたちであった。
ところが、当時は、経済的な危機を迎えていた。まず、繊維産業が、1786年にイギリスと締結された英仏通商条約によって、安価な綿製品がイギリスから流入したことによって、壊滅的打撃を受けた。
さらに、1785年には、干ばつがあり、1788年も凶作であった。これにより、多くの農民が没落する。
また、凶作に伴う、食料品価格の高騰は、工業製品の需要減少をもたらし、これに従事する人々も困窮した。
こうして、3つの身分すべてが、おのおの相異なる不満と不安を抱えて1789年を迎えることになる。
1789年5月、全国三部会が開会した。ところが、すぐに、第一・第二身分議員と第三身分議員が対立し、会議は機能不全となる。
第三身分議員は、自らの集会を「国民議会」と名付け、憲法制定まで解散しないことを誓い、(テニスコートの誓い)第一・第二身分議員にも合流を呼びかけた。
そして、国王も国民議会を認めざるを得なくなり、正式に立憲国民議会が成立した。
しかし、これは身分制社会の否定を意味することから、国王はなおも面従腹背と抵抗を試みていた。
そして、改革派とされる財務総監ネッケルの罷免から、ついに民衆の怒りが爆発し、パリ民衆による「バスティーユ牢獄」の襲撃で、フランス革命の火ぶたが切られたのである。
立憲国民議会は、この事態に対応するため、改革を急ぎ、まず、「封建的特権の廃止」を宣言し、ついで、「人権宣言」を批准した。
ところが、「封建的特権の廃止」と「人権宣言」を国王ルイ16世がなかなか批准しようとしないため、憤慨したパリ民衆は、ベルサイユ宮殿まで行進し、国王一家をパリのテュイルリー宮殿に移し、国王に両宣言の批准を強いたのである。
立憲国民議会は、革命派の民集(サンキュロット)の力を借りて、国王側の抵抗を抑えつつ、立憲君主制の実現を目指した。
そして、人権宣言を前文とする憲法(1791年憲法)が制定された。
憲法制定をもって、立憲国民議会は解散し、新しい国会である立法議会が開会するが、そこでは、立憲君主制をはかるフィヤン派が多数を、さらなる民主化を求めるジロンド派が少数を占めることとなった。
これで落ち着いたかと思われた矢先の1791年の夏、国王一家がパリのテュイルリー宮殿を脱出して国外に逃亡しようとする事件が発生した。(ヴァレンヌ逃亡事件)
この事件で、国王に対する国民の信頼が大きく損なわれ、深い動揺が広がった。
最初は事態を静観していた周辺諸国も国王と王政を支持する判断に傾いていく。
1792年、フランスは、オーストリアに宣戦布告して開戦するが、戦況が不利になるなか、パリ民衆は武装蜂起し、やがて、王政廃止と共和政(第一共和政)の成立につながっていく。
この渦中、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは反革命とのことでギロチンで処刑されることになるのである。
(参考)詳説世界史研究(木村 靖二他編・山川出版社)
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